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23区域の中央からやや南側に下がったところに位置する港区は、千代田区、中央区とともに都心3区に位置付けられています。その面積は20.37㎢で、23区内では中間の12番目の広さです。人口は26万人ですが、昼間は94万人と膨れ上がります。15歳未満の人口比率は13.8%と23区内で最少という特徴もあります。また、港区は坂の多い起伏に富んだ地形で、区域の北西側は台地状の高台、反面、東京湾岸一帯は埋立地など低地です。 港区周辺は江戸時代には武家屋敷が集中していた場所で、六本木には毛利家、高輪には細川家、汐留には伊達家、芝には島津家など諸大名が広大な屋敷を構えていました。明治以降は華族が多く暮らして外交の拠点ともなり洋風建築が多く建ち並ぶ土地柄に変貌していきます。港区周辺は常に時代の先端的な暮らしが出現してきたと言えるのかもしれません。その傾向は現在にも受け継がれ、いまは高層ビルが建ち並ぶ都市的な景観が特徴です。 大使館や大型の商業施設などが多く、飲食店の数では都内第2位の5300店ほど。また、賃貸住宅の平均家賃も18万円超となっていて都内でもっとも高額なハイソなエリアと言えるでしょう。 港区内はきめ細かく網羅された優れた交通環境を備えたエリア。仕事でもプライベートでも、フットワーク軽く立ち回れることでしょう。 港区にあるJRの各駅、品川駅、新橋駅、浜松町駅はどこも利用者が多い駅で、私鉄などもここを起点に各方面へ路線を伸ばしています。 地下鉄も充実していて、東京メトロも都営地下鉄も非常に多くの路線が運行。 また、バスは都営バスや東急バスなど、多くの会社のバス路線が区内と周辺をくまなくつないでいます。 一方、港区は東京湾に面しているので伊豆諸島を航路とする海上交通の起点でもあります。隅田川の水上バスなども航行していて、港区の名所を水上から眺めるのも格別な体験です。

品川という駅名ながら、品川区ではなく港区の南端に位置しています。 東海道新幹線も通るJRの主要駅の一つで、一日の利用客数は約64万人と全国10番目の多さ。品川駅のコンコースを人が行き交う様子は、ニュース映像などでしばしば登場しています。 JR山手線、京浜東北線、横須賀線のほか、京浜急行電鉄も乗り入れています。 また、品川駅は駅構内や駅に直結した店舗など、ショッピング施設が充実した駅としても人気です。 港区の中央のやや北よりに位置している駅。東京メトロ日比谷線と都営地下鉄大江戸線が乗り入れています。 六本木ヒルズや東京ミッドタウンなど、都内でも有数の複合大型施設と地下道でつながっているので、平日休日問わず利用客が多い駅です。 また、現在、六本木周辺には多くの美術館があり、乃木坂の国立新美術館やギャラリーなどと合わせて、上野についで美術館の集中するエリアになっています。 六本木駅は繁華街とともに、文化の発信地へアクセスする駅ともなっているのです。 港区は大人の街という印象が強く、15歳未満の人口比率も低いので子育てには不向きに思われますが、そんなことはありません。 実は人数が少ない分、手厚い制度や充実した施設が期待できる区なのです。子育てするなら港区でというスローガンは看板倒れではないようです。待機児童数も平成31(2019)年にゼロを達成しています。 港区の子育て支援制度は多岐にわたりますが、特徴的なものを挙げてみましょう。 子ども医療費助成制度は区内の中学3年生までの子どもを対象としていて、医療機関で保健診療や調剤を受けた場合に自己負担分を区が助成してくれる制度です。 また、生後4ヶ月以上の子どもで、保護者が働いていて保育ができない場合に、160時間預かり保育をしてくれる「みなと保育サポート」も実施。 第2子以降の子どもの保育料を無料化しているのも画期的で、これは23区で最初の取り組みとして注目されています。 ちょっとユニークなものに「港区父親手帳」というものがあります。育児の基礎知識など赤ちゃんの成長に合わせて解説しています。母親向けの手帳は昔からありますが、父親向けの手帳があるのは、育児のみならず男女共同参画への港区の積極性の現れとも言えそうです。また外国人の多い港区らしく外国語版の子育てハンドブックも発行しています。 なお、区内の学校は下記のほか、小学部・中学部・高等部のあるインターナショナルスクールが4校あります。 港区の治安は23区内で18番目と、あまりよいとはいえない状況です。 高所得者が多いエリアである一方、繁華街が点在していて不特定多数の人間が出入りしているためでしょう。 区内でもっとも犯罪に遭遇しやすいのは、六本木です。特に首都高速の南西側の六本木3丁目や六本木6丁目は、夜遅くまで営業している店舗が多く、飲酒がらみのトラブルで暴行や傷害などの犯罪が多発しています。六本木ヒルズやテレビ朝日本社ビル周辺では、万引きや自転車盗も目立ちます。 次いで犯罪が多いエリアは芝公園の東京タワー周辺です。やはり一年を通して観光客が多い一帯ですが、こちらでは自転車盗やスリが多い傾向です。 同様の犯罪が多いのは、表参道駅周辺。自転車盗、スリのほかに万引きも目立ちます。 スカイツリーが開業して存在が薄まりましたが、いまでも年間250万人以上の来場者を誇るスポットです。 人気は2つの展望台でメインデッキは海抜150m、トップデッキは海抜250mの高さ。 時期によって変わるライトアップも注目され、夜間に訪れる観光客も多く、展望台からは東京の夜景を楽しめます。 タワーの下には5階建てのフットタウンがあり、飲食店やショップが入っています。 東京タワーは芝公園の一画にあり、徳川家ゆかりの増上寺もすぐ近く。公園で遊んだりお寺を訪ねたり、周辺を散策するのもよいでしょう。 高層ビルの森タワーを中心に、映画館の入ったヒルサイド、上階が住居になったケヤキザカなど、複数の建物で構成されています。多彩なレストランや個性的なショップが数多く入っていて、人が絶えることがありません。 また、森タワーの高層階には、美術館やギャラリーがあり、独自の企画展は常に高い評価を受けています。 防衛庁本町檜町庁舎の跡地を再開発して平成19年に開業した大型複合商業施設です。 高層ビルであるミッドタウン・タワーを中心にして複数の建物が建っています。オフィスやホテル、レストラン、ショップなどのほかに、ライブハウスや美術館もあります。 隣り合う檜町公園と合わせて4haの緑地もあり、ミッドタウン側の公園では戸外のイベントも盛んです。 国内では5館目の国立美術館として平成19年にできた美術館。乃木坂駅に直結しています。 中に入ると巨大なガラスの曲面に圧倒されますが、黒川紀章による美術館では最後の設計です。 美術館としてのあり方も特徴的で、所蔵品をもたず常設展は行いません。数多くある展示室では美術団体の公募展や企画展が開催されます。 広大なガラスの吹き抜けには、円錐を逆さにしたような場所にブラッセリー・ポール・ボキューズ・ル・ミュゼがあり、浮遊するような空間で味わう非日常的な食事が格別です。 東京ベイを代表するスポットで、ゆりかもめのお台場海浜公園駅が最寄りです。入り江を囲むように造成された800mの人口の砂浜があり、ウィンドサーフィンやカヌーなどのマリンスポーツを楽しんだり、展望デッキから海の景観を眺めたりすることも。 夜景のスポットとしても人気で、レインボーブリッジや東京タワーのライトアップが海面に投影され、きらめきが倍化されます。 品川駅高輪口から徒歩2分で行ける都会の水族館。品川プリンスホテル内にあります。 水、光、映像によるファンタジックな空間のなかで、水中トンネルを通ったり、ドルフィンパフォーマンスを見たりとお楽しみは盛りだくさん。かわいいカピパラの餌やりやイルカに触る体験もできます。 また、アクアパークの凝った演出空間のなかで、食事やティータイムを楽しむこともでき、デートスポットとしても要チェックです。 23区の北部にあり11番目の広さを持つ北区には、自然があふれています。区内には鉄道路線が多く、どこからでも最寄り駅へ徒歩で行ける便利さがあります。 水源が豊富で交通アクセスが良かったメリットを活かし、1875年に製紙会社が操業を開始しました。 その後すぐに軍の工場が建ち、軍都として急速に発展した北区は、終戦後は軍施設の跡地に大規模な団地が次々と建設され人口が増加しました。 1965年時点で45万2000人だった人口は、その後工場の移転などの影響を受け減少へと転じ、2010年には33万4000人となり、23区中、最も人が減ってしまった区となりました。 住民の入れ替わりが活発ではなかったために、高度成長期に移り住んだ人たちがそのまま住み続けた北区は、 現在23区でも50歳以上と65歳以上の住民比率が23区内で最も高く、高齢化率ナンバー1の区となっています。 そして30~44歳の子育て世代の割合も22位、15歳未満の子ども人口比率も17位と低迷しています。 西側の高台から東側の低地に向かって流れる川、湧き水、滝など、水に恵まれ自然にあふれた環境であることに加えて、 美術大学ゆかりの芸術家が多く輩出したこと、日本文学を代表する作家が多く住んでいたこと、 都心への交通アクセスが便利という数々の利点があるにも関わらず、人口自然増加率が22位、出生率が21位と低迷しているのは、 ひとえに北区という名前の魅力の無さだという意見もある中、2020年東京オリンピック開催が決定し、 湾岸エリアの賑わいの波に乗って区の活性化を進め人口を増やす新しい政策が期待されています。 その実現には、老朽化した団地のリノベーションを進め、これから子育てを迎える年齢層を呼び込むことが急務だと言えます。 北区の発展のきっかけは、1875年に操業を開始した製紙会社にさかのぼることができます。 製紙の町として知名度を上げ、1887年には第一師団工兵大隊が設置され、軍関係施設や軍需工場が集積していきました。 戦後を経て、1970年代に入ると大工場の区外移転が進み始めます。 これに伴い、その跡地には団地が建設され、たくさんの人たちが住むようになりました。 北区では、現在でも総住戸数に占める公的賃貸住宅の割合は16.7%で、23区第2位にランクインしています。 移転した軍関係の工業技術は、北区や隣の板橋区で光学機器や精密機器、化学、薬品、火薬の製造へと発展しました。 現在北区に残っている工業の中には、1876年に開設された国立印刷局の王子工場と滝野川工場があり、この2工場では紙幣の印刷を行っています。 この2工場が、北区における製造業従業者1人当たり出荷額と付加価値額1位に大きく貢献しています。 北区には文士村と呼ばれた地域があります。1887年に国立東京藝術大学が開校し、現在の北区田端近辺には多くの文士や芸術家が集まりました。 近代陶芸家として初の文化勲章を受賞した板谷 波山(いたや はざん)が、この地に窯を作り、 その後芥川龍之介や室生犀星が移り住み、続々と有名な作家が田端にやってきました。 作家たちは田端付近に集まり、次々と文学組織を立ち上げ、同人誌を発表し活発に活動するようになりました。 北区の田端文士村記念館には当時の文士たちに関する展示がされています。 明治以降、多くの住民の日常生活を支えた商店街は今も健在で活気にあふれています。 また路面電車沿いの桜並木、美しい公園、祭りなど町並みの良さ、鉄道駅の多さに加えて保育サービス充足率が3位、 学童クラブの登録率も5位と子育て支援の環境が充実しており、住むメリットがたくさんある北区は生活の利便性がとても高いエリアと言えます。 近年23区への人口集中が始まったのを機に、北区では区の活性化を目指す戦略の1つとして地域イメージ資産の形成を掲げました。 第1の交通では、23区内でJRの駅が最多であること、地下鉄や都電も含めれば、区内はほぼ全域が駅まで徒歩圏ということを活かし、 既存路線の延伸などを主とした交通アクセスの充実を図ります。 2番目のさくらは、全国的に有名な飛鳥山のさくらを強くアピールして、自然があふれる北区のイメージの定着を進めます。 飛鳥山公園再整備や荒川などのリバーフロント整備を行い、首都圏のオアシス的存在として魅力アップを目指します。 3番目のネサンスでは、ルネサンスの再生と誕生の2つを合わせて、これまでに北区で生まれた文学作品など、 既存の文化遺産に加えて、自治体が音楽コンサート開催や演劇人の養成に関わり、新たな文化を創造するものです。 東京23区の下町エリアの荒川区は、面積が21位、人口密度が3位ということからもわかるように小さな住宅が密集したエリアです。 江戸時代には宿場町と大根栽培を主とした農村地帯だった荒川区は、明治時代に入り隅田川の水運を利用した工業の町として発展しました。 関東大震災後は多くの罹災者が荒川エリアへと流入しました。 急激な人口増加に対応すべく集合住宅が数多く建設されたことから地価が上昇し、それに乗じてこれまでの農業用地が次々と宅地へと変わり、賃貸住宅が建設されました。 明治時代に建設された官営工場が1961年に閉鎖された後、工業は家族経営が主体の小規模な事業所が多く残りました。 以降、工場の立地規制の強化を受けて、区内から大工場は次々と移転し跡地に住宅地や商業地が形成されていきました。 区画整理が不十分なまま進んだ都市化によって、荒川区は住工が混在したエリアとなり、防災面の問題を抱えたまま現在に至っています。 現在の荒川区は、住民の定住志向が強かった結果、高齢化率6位 後期高齢化率4位となっています。 狭い土地に密集した店舗や公共施設、医療施設などが何でも近くにある暮らしやすさにつながっていることや、 荒川区の下町ならではのコミュニティ意識の高さも子育てファミリーにとっての暮らしやすさにつながっています。 23区内で地価が17位、2005~2010年の人口増加が11位という結果は、今後、ファミリー層の流入増加が期待できる数字と言えます。 荒川区は、昭和時代を思い起こさせる独特の町並みがその特徴の1つです。 都市化が進んだ大都会東京とは一味違う、昭和時代にタイムスリップした下町の情緒あふれる暮らしができるのが荒川区です。 他の区にはない荒川区の魅力を代表するものに路面電車があります。単にレトロ感が味わえる乗り物ではなく、 住民の生活を支える主要交通機関となっています。 区の東西の中央を走り抜ける都電荒川線は、営業キロ数12.2㎞、停留所数30カ所、運転所要時間56分で、昼間の運行間隔が5分ごと、 1日平均46,000人が利用しています。区内にはこの路線以外にもう1つ、路面電車が運行しています。 荒川区のもう1つの特徴には大型スーパーがなく、中規模の専門スーパーや小売店が集まった商店街が多いことがあげられます。 経営環境は厳しいとはいえ、現金つかみ取りやテーマパークのパスポートプレゼントといった魅力的なイベントを展開して、集客努力を続けています。 戦後の都市化や核家族化が進んだことで、地域内での人と人との交流が薄れてきました。 家族以外の人との関わりあいがない日常では、物質的、金銭的な豊かさのみが追求され、個人においては規範意識や社会的責任が失われた行動が目立つようになっています。 このような生活環境の中で、互いに助け合い支えあって共に暮らしていくということが困難になり、 住みよい社会づくりへの障害へとなっています。 江戸時代より下町として栄えてきた荒川区でも従来からのコミュニティ意識が薄れてきており、 荒川区ではあらかわの心推進運動を掲げて、地域を愛し、人を思いやる暖かく優しい心を大人がリーダーシップを取りながら次世代へと継承する努力をしています。 具体的には、子どもの見守り活動や災害時の要援護者避難援助体制などがあります。 人口当たりの要介護者の割合が23区中3位のリスクを抱える荒川区では、55組織59体制で高齢者の要援護者を助けるおんぶ作戦体制を整えています。 東京オリンピックが2020年に開催されることが決定しました。 オリンピックの施設建設や交通インフラの整備などが進み、東京へのヒト・モノ・カネがさらに集中することが予想されています。 江東区には、このオリンピックの開催競技場予定地が区内にたくさんあります。 中でも豊洲エリアは、大規模な再開発が進み不動産市場としても期待されています。 17,000人を収容する選手村も隣接の中央区に建設される予定で、跡地が住宅として販売される予定となっており、 現在江東区のウォーターフロントエリアはその市場価値が急上昇中です。 江戸時代より埋め立てによってその面積を広げてきた江東区は、用地の増大と共に産業も発展してきました。 23区全体の産業の中でも印刷業、運輸業の江東区が占める割合は高くなっています。 そして湾岸エリアの埋立地増大と共に高層マンション建設が進み、多くのファミリー層の人口流入があり、 区民の平均年齢も43.6歳と若く、2005~2010年の人口増加率も23区中5位となっています。 終戦直後1948年の面積が22.5㎢だったのが、2015年度では40.2㎢、2000~2010年の間での区内人口増加率が22.3%、 湾岸エリアに絞れば88.7%の人口上昇という驚異的な区の規模の拡大に、自治体の対応も遅れ気味となっています。 オリンピックの受け入れ態勢の確立と住民の暮らしをサポートする区政に、全国から関心が集まっています。 1882年、江東区の面積は11.4㎢しかありませんでした。2015年現在は40.2㎢、130年を経てその面積は3.5倍となりました。 江戸時代、江東区付近の市街地は埋立に適した広い低湿地帯で、利根川水系を利用した水運業の要所となり問屋取引を中心に発展しました。 また江戸の近郊農地として野菜も栽培されていました。 明治から大正にかけて工業が目覚しく発展し、セメントや紡績、砂糖工場などが建設されています。 関東大震災で多くの建物が消失しましたが、復興事業で区画整理が進みました。 この頃から、工業の発展だけでなく集合住宅の建設も始まっています。 終戦を経て現在の江東区に再編されてから、急激な人口増加に対応すべく都営住宅の建設が進みます。 台風による多大な被害の教訓を活かすため、水害対策も大々的に行われました。 1950年代後半から工場の区外移転が進み、住宅建設が活発化します。水害対策も一段落し、地下鉄の開通など交通アクセスも向上しました。 そして現在、江東区は2010~2035年の25年間で最も人口が増加する区と予測されています。 現在、工業地から住宅地へと変わりつつある江東区ですが、湾岸エリアという利便性を活かし、 工業だけでなく卸・小売業・サービス業・飲食・宿泊業などの第3次産業や昔ながらの運輸業も盛んに行われています。 工業については、その規模全体は縮小傾向にあるものの、2010年時点では、23区内で工場数が7位、従業員数5位、出荷額3位と依然トップクラスをキープしています。 工業の中では印刷・印刷関連業務の事業所数は23区中最多の1位で、その生産高は23区全体の30%を占めています。 木場の街のとして、木材・木製品の事業所数と生産高は23区で共にトップとなっています。 運輸業は江東区の全産業に占める構成比が、2004年度統計では7%、従業者数は12%となっており安定しています。 そして東京港の港湾施設の多くは江東区内にあり、物流拠点が集まっていることから運輸業も活発に行われています。 埋立による区の面積の増大で住宅開発が進み多くの人たちが移り住んで来た江東区は、多子高齢化という現象を引き起こし、 自治体の政策が追いつかない状況を生み出しました。 2000年以降、高層マンション建設ラッシュに伴う若年ファミリー層の大量流入で、 江東区では小学校の建設が追いつかなくなり2004年にマンション建設計画の調整に関する条例を出しました。 これは、3階建て20戸以上の住宅の計画の事前届出を義務付けるもので、学校などの公共施設の整備が追いつかない場合は、 マンションの建設中止や延期、見直しを求められるものです。 後にこの規制はその一部が緩和されましたが、出入りの激しい単身世帯が住むワンルームマンション建設の規制は存続しています。 日本全体が少子高齢化社会に突入し、江東区の福祉政策にも多くの課題を投げかけています。 2011年のデータでは、23区中8番目に高齢者が多く、高齢化率は11番目の高さとなっています。 また年少人口も増えており、保育サービスや学校建設も急がれています。 この結果、江東区の一般会計における民生費の割合は43.7%と突出していますが、未だ保育所の待機児童数の減少や高齢者の生活支援の充実には至っていません。 これに加えて、東京オリンピック開催のために建設された競技会場の有効利用についても、区政の判断が住民の暮らしやすさに大きく影響する可能性があります。 港区、目黒区、世田谷区がブランドタウンとして「住みたい街」の上位にランクインしている一方で、 足立区は住みたくない街としてネガティブなイメージを長年背負い続けてきました。 23区内で犯罪件数が多い区として、ワースト1を記録した年が多かったのがその最大の原因と考えられていますが、 区民の努力で2013年度は4位まで順位を下げたのにもかかわらず、足立区のマイナスイメージはなかなか改善されません。 足立区は治安が悪いというイメージは、犯罪件数の多さだけでは語れないその他の要因も複雑に絡み合っており、 自治体ではマイナスイメージを払拭する施策を次々と打ち出しています。 その努力が実り、2010~2015年度の総人口の増加率が23区内6位となりました。 順位を上げた要因の1つは、区内の唯一の繁華街、北千住の駅付近を中心とした都市化といえます。 鉄道路線の開通で利便性が向上したことなども追い風となりました。 そして、軽微な犯罪を取り締まるための防犯対策などが徐々に効果を上げています。 大学のキャンパス開設、東京スカイツリーのお膝元など、国際観光都市、文教都市として、足立区が発展する道筋ができつつあります。 何かと犯罪がらみのデータばかりが一人歩きしてしまう足立区ですが、東京23区の一員として産業も活発に行われています。 南に隅田川、西に荒川、新芝川、北に毛長川、東に中川、綾瀬川、垳川、そして人工河川の荒川放水路があり、恵まれた水源を利用した農業が盛んに行われてきました。 総農家数は23区中4位、専業農家数も4位となっています。1農家あたりの耕作面積では6位で小規模農家が多い区となっていますが、 農業就業人口が4位となっており、農業に携わる人が多いことがわかります。 工業も同様で、1事業所あたりの従業者数が少ないのですが、生産高や付加価値額は4位とかなりの活力をうかがわせます。 足立区が産業部門で1位と獲得しているものがあります。運輸業の事業所数で、足立区は東京に出入りする物流の中継基地の役割を果たしています。 いろいろな産業が発達している足立区に住む人たちの平均所得水準額は、2012年度で323万円となっています。これは23区内で所得水準が最低の区となっています。 やっぱりかと思いきや、この金額は全国の市町村ランクでは812市区の中で157位と上位2割に入っており、大阪市の192位、札幌市の285位より水準が高い金額です。 全国的なレベルで見れば、足立区は決して生活水準が低い区ではないことがわかります。 人口増加率が6位となり、イメージが変わりつつある足立区の今後のカギを握るのは、北千住の発展にあります。 その中心となる北千住駅は、私鉄、地下鉄併せて6つの路線が乗り入れており世界6位の規模を持つ巨大ターミナル駅です。 足立区の繁華街はこの北千住駅を中心に発展してきました。 そして2015年、北千住駅にとって最大の契機となる上野東京ラインが、2015年3月14日に開業しました。 上野東京ライン開業で、これまで東京~上野、上野~東北方面と分断されていた路線がつながり利便性が大きく向上しました。 相互路線が開通したことで、東北本線が延長され、東京を越えて横浜へ乗り換えなしで移動できるようになりました。 北千住駅周辺には大型ショッピングセンターがオープンするなど商業が活性化しています。政府が発表した基準地価では、北千住が都内で唯一の地価上昇地点となりました。 そして行政による大学誘致活動が活発に行われた結果、2006年以降、いくつかの大学が開学しています。 これらの進化が足立区の人口増加に大きく貢献したのは言うまでもありません。 文京区は東京23区のほぼ中央にあります。起伏が多い土地で坂が多く、区内は場所によってその景観に違いが見られます。 文京区は、日本の最高峰と称される国立の東京大学の所在地として知られていますが、 区内に本部を置く大学の数が千代田区に次いで2番目の多さとなっています。そして有名私立中・高等学校も多く、区内の高校生の大学進学率は23区内最高の70.6%です。 文京区は有名教育機関が多く、それに関連した産業が発達しました。大学との連携が深い医療機器の出荷額は23区内の3割を占めています。 そして出版業の中でも印刷業は、製本工場の数が23区内でもっとも多く、全国にある製本工場の20件に1件以上が文京区にあります。 また科学者や記者、編集者など、専門性の高い人たちが住む割合も高くなっています。 古くからの工場が閉鎖し、跡地に高層マンションが数多く建設されていることから、文京区では人口が増加しています。 文教の町として羨望が集まる文京区は、江戸時代に建てられた幕府の最高学府「湯島聖堂にそのルーツをたどることができます。 江戸時代、現在の文京区にあたるエリアは武家屋敷が多くありました。そして5代将軍 徳川綱吉によって、 1690年に幕府が管轄する学校昌平坂学問所が開設されました。 明治時代に入り、この学問所は政府の所轄となります。これまでの儒学を学ぶ場としての学問所は廃止されましたが、 日本初の博物館となり、翌年には東京師範学校がおかれ国内初の図書館も開設されました。後に東京女子師範学校も設置されました。 2つの学校は高等師範学校に昇格し、現在の国立大学へと発展しました。 湯島聖堂は1923年の関東大震災では一部を残しその大半を焼失しましたが、再建され保存修理工事を経て現在に至ります。 武家屋敷の大半は明治以降、大学の用地として引き継がれました。また水戸徳川家の上屋敷内庭園跡は小石川後楽園となり、現在まで緑地として保全されてきました。 このような学問とは切り離せない文京区の歴史が、後に産業の発展の土台となったのは言うまでもありません。 明治政府は、近代国家を築くため教育政策に重点を置きました。文京区にあった武家屋敷跡には、多くの学校が設立され区外からの転入も増えました。 それに伴い、森鴎外や夏目漱石、樋口一葉、石川啄木といった近代文学を代表する文人が多く集まり、名作が次々と生まれました。 日露戦争から第一次世界大戦ごろ、日本経済はめざましい発展を遂げました。武家屋敷跡の宅地化も進み、東京には多くの人が移り住みました。 この頃より、印刷や製本業、医療機器製造が本格化し、東京23区の代表産業へと成長していきました。印刷業は東京23区の最大の地場産業で、 23区全体で印刷関連業の出荷額は全国の2割を占めていますが、文京区も印刷関連業の発展に貢献しています。 出版社や企業の本社、官公庁が多く集まった東京での印刷物の需要は、都内23区内の小規模な印刷関連の事業所が支えました。 大学の数が多い文京区では、区内居住者に占める大学生の割合は6.2%と23区最高となっています。この数字は23区平均3.1%を2倍近く上回るものです。 そして研究者の割合も高く、就業者1,000人に対する研究者の割合は8.7人と、これも23区平均2.5人を大幅に上回る第1位の人数です。 また印刷関連業種の事業所数は 23区内3位、従業者数も4位と上位にランクインしています。 医療用機械器具や医療用品製造業の事業所数と従業者数は23区中でトップとなっています。

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